どらねこ路地裏研究所

医療や福祉、社会のことを路地裏から見て考える

「勉強しなさい」は未来からの願い

「思い出を作る」と似た言葉に、パパやママから子どもたちへの「勉強しなさい」があります。

未来の自分もしくは子どもに「よい」と思う将来のために、「今」を計画し遂行するところが似ています。

「今」は未来のための手段なんですね

 

なぜ「勉強しなさい」と言うのか

勉強してテストでよい点を取ると、よい学校に行けて、よいところに就職できて、よいお給料がもらえて、よい生活ができると信じているからです。

高度経済成長まではその通りでしたから、親たちはよい学校、高校、大学へ一生懸命入れたかったのです。入れれば、プラスα、他よりもよかったのです。

でも今は違います。

大学進学率も高くなり、そこからこぼれないように、一つの基準として、勉強して上の学校に行かないといけなくなったのです。偏差値や学校名とか、わずかの差を争って

 

未来から見たよいであろうことのために、今、「勉強しなさい」と願いを込めて言います。

パパやママが勉強が嫌いであったとしても

勉強の内容よりもテストの点数であったとしても

未来のよいと思われることのために今を費やす、20年近くも…

 

多分、学ぶことすら手段とし、今より未来と言うのが、勉強の虚しさ、「勉強しなさい」と言われるとイヤな感じがするのは、そのあたりから来ているのかもしれません

 

ちょっと脱線しますが、日本人は10年以上も英語を勉強しているのにどうして話せないのかと外国人に言われることがあります。確かに、中学3年、高校3年、大学に入っても学びますから、まぁ10年、今や小学校の教科にも入っていますから、そういうことになりますね。でも、多分、その理由は簡単です。英語も他の教科と同じように、点数を取るための手段であって、英語自体を学び使えるようにしようとかではないからでしょう。高度な数学や物理と同じように、日常で使うことはなく、テストが過ぎてしまえばデスクトップのゴミ箱に移動されるのと一緒だからでしょう。

 

もどりまして、

でもこの「勉強しなさい」ゲームから降りるのは、かなり勇気がいります。

もう、仕方ないので、

ぶっちゃけ、そういうことだから、テキトーに勉強してよ、トンビが鷹を生むことは滅多にないので、(私もそうだったから、そんなとこでいいか)と思いたいですね。

多分、手段として使われている勉強よりも、もっと意味のあるものはあるでしょうし、手段として使い尽くされない今もあると思うんですねー🐈