「○○してもらっていいですか」
スーパーのサッカー台で買ったものをエコバッグに詰めていると、年長さんくらいの男の子がチョロチョロ騒いでいて、ママが
「静かにしてもらっていいですか!走らないでもらっていいですか!!騒がないでもらっていい⁉」
だんだん、ものすごいこわい声と顔で言っているのに、チョロスケくんはおさまらず、そのうち全部入れ終わり
「静かにしてもらっていいって、言っているのに!」と言いながら帰って行きました。
「○○してもらっていいですか」
流行りの言い回しですね
ヘンだな、と思ってしまいます
「○○してもらっていいですか」は、言葉からすると、懇願であり、少なくとも自分と対等か上の立場の人に、ものを頼む言い方です
子どもは対等でもないし、立場は上でもありません
「○○しなさい」と、社会的に妥当なことであれば、ダイレクトに命令してもいいわけです
どんな流行で、誰が言い出したんでしょうね。
ママが、鬼の形相で「静かにしてもらっていいですか!!」というのは、こわいですね
私がこんなに頼んでいるのに、そうしてくれないあなたはひどい人だわというメッセージと怒りを送っているような感じです
それなら、「うるさいわよ」「静かにしなさい」と言われたほうが、反抗もできるし、まだキズは浅いです。
チョロスケくんのように、そんなの無視できる子どもならいいですが、それを真に受けて従わない自分はひどい人間だという縛りを植えつけられたり、自分は親や人から敬われ、頼まれて、行動する人間なんだという勘違いも生まれてしまうかもしれませんね。
聞いた話ですが
大学を卒業して就職してまもなく、「仕事はどうですか」とたずねたところ
「上司が上から目線でモノを言う」と、言った若者がいたそうです。
少なくとも、学校を出て、就職し、する仕事は業務命令であり、「お願いですから、この仕事をしてください(仕事してもらっていいですか)」なんてことは、ひとつもないのに(もし言われているとすればそれはイヤミです😼)、小さい子どもの時から「○○してもらっていいですか」と育てられると、何となく前途多難なような気がします。
「勉強しなさい」は未来からの願い
「思い出を作る」と似た言葉に、パパやママから子どもたちへの「勉強しなさい」があります。
未来の自分もしくは子どもに「よい」と思う将来のために、「今」を計画し遂行するところが似ています。
「今」は未来のための手段なんですね
なぜ「勉強しなさい」と言うのか
勉強してテストでよい点を取ると、よい学校に行けて、よいところに就職できて、よいお給料がもらえて、よい生活ができると信じているからです。
高度経済成長まではその通りでしたから、親たちはよい学校、高校、大学へ一生懸命入れたかったのです。入れれば、プラスα、他よりもよかったのです。
でも今は違います。
大学進学率も高くなり、そこからこぼれないように、一つの基準として、勉強して上の学校に行かないといけなくなったのです。偏差値や学校名とか、わずかの差を争って
未来から見たよいであろうことのために、今、「勉強しなさい」と願いを込めて言います。
パパやママが勉強が嫌いであったとしても
勉強の内容よりもテストの点数であったとしても
未来のよいと思われることのために今を費やす、20年近くも…
多分、学ぶことすら手段とし、今より未来と言うのが、勉強の虚しさ、「勉強しなさい」と言われるとイヤな感じがするのは、そのあたりから来ているのかもしれません
ちょっと脱線しますが、日本人は10年以上も英語を勉強しているのにどうして話せないのかと外国人に言われることがあります。確かに、中学3年、高校3年、大学に入っても学びますから、まぁ10年、今や小学校の教科にも入っていますから、そういうことになりますね。でも、多分、その理由は簡単です。英語も他の教科と同じように、点数を取るための手段であって、英語自体を学び使えるようにしようとかではないからでしょう。高度な数学や物理と同じように、日常で使うことはなく、テストが過ぎてしまえばデスクトップのゴミ箱に移動されるのと一緒だからでしょう。
もどりまして、
でもこの「勉強しなさい」ゲームから降りるのは、かなり勇気がいります。
もう、仕方ないので、
ぶっちゃけ、そういうことだから、テキトーに勉強してよ、トンビが鷹を生むことは滅多にないので、(私もそうだったから、そんなとこでいいか)と思いたいですね。
多分、手段として使われている勉強よりも、もっと意味のあるものはあるでしょうし、手段として使い尽くされない今もあると思うんですねー🐈
「思い出を作る」「思い出になる」
もう、この暑さ、どこかへ行く気力もないので、ひがみかもしれません。
夏休みになると、半ば強迫的にか、子どもが小さいと半ば強制的にか、、、どうかは、わかりませんが、レジャーに行きます。みんな同じように行くので、道路は渋滞、駅や空港は混雑……
そのレジャーの大きな目的は「思い出を作る」こと
なんか、ヘンですね
この出来事がよい思い出として残ってくれればいいなーと願う気持ちはわかりますが、修学旅行じゃないんだから、、「作る」のか~ (修学旅行だって、みんなで過ごした記念に行く話でしたが、今は何か学んでこないといけないようですが…)
主たる目的が、未来の自分もしくは未来の子どもが「よい」と思うこと になります。
よい過去であったと思うために、今を計画し、遂行しているのでしょうか
今を好きなように、あるいはなるようにしかならないように、過ごした結果、心に残ったものが思い出に「なる」。思い出の思い出たる位置、過去として残って行くものが思い出、意味からするとそんなところでしょうか…
「思い出を作る」は、言葉としてムリがあり、未来のための今なの? というつらさがありますね。
周りの人に「ハワイに行ってきたの~」と自慢ができたり、「私も、海、行ったわー」と同じようなことはしてるわと言えることも重要かもしれません。そしてまた、こんなに暑い中、家にいると「どっか、行こー」と言いたくもなります。
でももし、強迫的、強制的に、楽しみを作る、未来の思い出のために「今」を使うとしたら、なんかヘンだなーと思ってしまいます。
今しかない「今」はどこに行ったのでしょう
海や山へ行ったり、レジャーを楽しんだりすることが、今やりたいことならそれで充分、、、未来の自分から見て「よい」と思えるかどうかは、別の話かも、、
地球沸騰の毎日に驚き、ハイシーズンのレジャー代の高さにもびっくりし、なおかつ、テレビでたくさんの人出を見て胸が詰まり、結局どこにも行かない怠け者です。
(でもこのあいだ、隅田川を日の出桟橋から浅草まで舟に乗せてもらい面白かったんですよ(花火大会ではありません) 歴史的にも有名な橋、橋の下をくぐり、あー、江戸だ!東京だ!🎐
時は流れますが、未来の自分や子どもたちが、この「今」をどう思うかなんて、何の保証もないですものね、、)
ヤンキー母さん
偏見だと叱られるかもしれませんが、昔、小児科で会うヤンキー母さんたちが好きでした。今や絶滅危惧種かもしれませんが
走り回っているわが子の頭をペシッとたたき
「うるさいよ、静かにしなさい!」
別のお母さん
「タクヤー!座ってなさーい!こんにちはって言うんでしょ!」
「こんにちわー!!」
タクヤくん、大声、悪ふざけ
「ふふっ、こんにちは。 お母さん、キムタク好きなの?」と私
「そーなのよ、ハハハハハ、、全然似ていないけどねー」
ある日、学校に上がる前の子が熱を出し、くったりしているわが子を抱きかかえて
「先生、点滴してください」
若い真面目なドクターは
「カゼですから、薬を出します。水分を十分とって、体を冷やし、休ませると次第に良くなりますから~
世界では今、点滴をするよりも、自然治癒力、回復力を促すということが重要だと言われていて、、、」
熱心な説明が続きます。
ヤンキー母さん
「先生!世界はどうでもいいから、うちの子、治して!!」
「あ…、はい… 」そそと、点滴
(クククッ、先生の負け、、)
そう… 世界なんてどうでもいいんです。
目の前のわが子、愛を超えるものなんてないです。
目に見えないものに振り回されている
ネットの普及で、世界各地のことを見せてくれますが、いつのことなのか、この切り取ったワンシーンはどういうことなのか、本当はよくわからないのです。
(世界を視野にした慈善を否定しているわけでは毛頭ありません)
でも、今ここで重要なのは、自分の目で見て、手で触れていること、
ヤンキー母さんの真っすぐな愛情を超えるものなんてないな~
誰のため、何のため
親の面倒を見るため、働いて経済を回すため、税金を払って年金を支えるため に
この子がいるんじゃない
その利益や計算は、結果であって
目の前の子に対しては、距離感のある話で、人として、なんかあさましいというか、
現実の子どもと少子化の話の 距離というか溝はそのあたりにあるんじゃないでしょうか
ベビーちゃんは、なぜバスや電車の中で泣くのか
ベビーちゃんは泣くのが仕事です。
しゃべることができないのですから、お腹が空いたのも、オムツが汚れて気持ち悪いのも、暑いのも、ムズイのも、抱っこしてほしいのも、全部泣きます。
泣いて、口も喉も胸もお腹も手足も、すべて鍛えます。
ママも、察すること、思いやること、通じ合うことを学び、ベビーちゃんも通じ合う幸せを学びます。
だから、バスや電車で泣いても仕方ないだろう という話ではありません。
なぜ泣くのか
前提として、ひとつには、ママが何か用事があった時、首が座るようになったら、もれなく連れて外出しなければならないからです。
多くのママは、ワンオペです。
昔のように「はなちゃん、見ててあげるから、用事、足しておいで」なんて言ってくれる近所のおばさんはいません(いたとしても現在は、何かあったら責任はどうなるの?ボランティア保険は入っているのかしら、なんて考える時代ですから、簡単には頼めないと思いますが…)
この社会全体が、出産や育児を受けれいるヒトの群れではなくなったのかもしれませんね。
ベビーちゃんに必要なものと自分の用事の過不足がないように荷物を持ち、ベビーちゃんを抱っこし、何ならベビーカーを持って、勇者!いざ、出陣!です。
もうひとつは、言うまでもなく、こんなバスや電車の人ごみはイヤだからでしょう。
ママはバスや電車に乗る時、緊張します。
(泣かないでね、ちょっとの間だから)
ベビーカーなら(混んでいそうだから、たたもうかな…) 荷物もうひとつ増える
ママの不安や緊張は、抱かれている胸を通して、ベビーちゃんに伝わるでしょう。
そして、人近い、暑い、ムズイ、、、
泣きたくなりますよね
ミルクなの?オムツなの?どこかムズイの? おろして見てあげることもできません。
これがママのふつうの日常です。
でも、こんな大変な日常ってあるかしら
こんなことも1年足らずだと思えば歯も食いしばりますが、ギャン泣きされ、他の乗客から白い目で見られる瞬間は途方もなく長い時間です。
ママのワンオペも、バスも電車も、パッとは変わりません。
(いや、泣いても大丈夫)
(赤ちゃんも泣きたくなるよね、私もだ)
毎日どこかの神経をプチッと切って電車で通勤している私たちも、ヒトとして、異次元な日本人として、密かな連帯を感じますね
パパの産休 ~ついでに
私にも恩師と言える方が一人二人おり、わが国の社会福祉の教授第一号、故三𠮷明先生もそのお一人で(出会った時はご高齢でしたが)家庭裁判所の調停委員もされていました。
娘さんが二人いるおばあさんからの離婚調停で、下の娘さんの結婚式の直後
「私はこの時を待っていました。上の娘が生まれた時も、下の娘が産まれた時も、女のところへ行っていて、下の娘が無事結婚したら、離婚しようと心に決めていました」
おばあさんの意志は固く、離婚は成立し、その後おばあさんは元気はつらつパートに通い、おじいさんは通い帳(アパートを持っておりその家賃集金のためのノート)を持ってトボトボ歩いている…
「男子学生諸君、奥さんは大事にし給え」
蝶ネクタイの向こうからおっしゃっていました。
先にも触れましたが、産前産後の女性は尋常(普通の感覚)ではありません。ホルモンから体全体もめまぐるしく変化しますから、精神的にも普通とは違います。
その時与えられたダメージは、今も昔も、多分、一生忘れません。
やさしく手を握り励まし立ち合い出産なんて、夢幻ですから、「すごいこと、叫んでいたね」「ひどい顔だよ」「赤ちゃんて、シワクチャなんだね」
産後も「ゆっくり寝ていて、いいね」「出産は病気じゃないんだから、できることはやってよ」なんて軽く言わない方がいいと思います。
出産はやはり命をかけた修羅場であり、母子ともに命を落とすことがまれになったのは、何十年ものお医者さんや助産師さん、その他多くの人の願いと努力の賜物です。
とりあえず、ネットは何でも教えてくれますし、何でもわかったように思うかもしれませんが、実際に直面するのは別ものです。
出産、家事共々、わからないことに足を踏み入れているのだと思っていただき、できないならできない、入らないなら入らない、遠くても「ミキティー!!」とずっと応援してくれたほうが平和かもしれませんね。
パパの産休②
歓迎ムードですし、取得率を上げないといけません。
日本の男性は産休、育児参加が少ないからと―
過保護だと言われようと、外国は~と言われようと、産休は母体の回復と慣れない育児のソフトランディングのためにあると思います。平たく言うと、必要なのは家事全般とママのサポートです。
パパはおばあちゃんではないし(たまに、主夫のパパや家事に有能なパパもいますがまれです)
「ママ、ベビーちゃんのお世話はボクがするから、いつものようにママは家事をしてよ」なんていう互換性(立場を変えても大丈夫)はありません。
私はジェンダー主義者ではありませんが、女性と男性は出産に関して越えられない生物的な事実があります。ママは命をかけた出産からの回復と、変化する自分の体と歩調を合わせ、ベビーちゃんをはぐくむことを学ばなければなりません。
そして、家事
家事も福祉も低く見積もられています。大体のパパは、
「家事は分担してやっています」
ゴミ出し、風呂掃除、食器洗い
やってくれないよりはいいですが、分担(?)というのは綿々とした疑問です。
たとえば、日計、週計、月計を出さなければならない同じ事務職で
「ボク、週計の確認と共有ファイルのアップを分担するから」
と言われたら(えーっ、それ分担かな)と思いますよね。
家事は毎日の生活全般を支えることであり、繰り返しで終わりがなく、ここまでやれば、ハイ、O.K. おしまいは、ないのです。
多くのパパは、そんなことしたことがないのです。
パパが悪いのではなくて、したことがないのはしたことがないのです。なのに、家事なんて誰にでもできると(わが国の男性社会では)思われているので、陸上競技の400m選手に「キミ、3段飛びに出てくれ給え」と言うようなものです。
産後の家事は、家事の分担のようなわけにはいかないので(ベビーちゃんのこと以外 “ぜ~んぶ、お願い” )「パ~パぁ、パ~パぁ」と限りなく呼ばれても、家事の包括性(生活のすべてに気を配る)継続性(切れ間なく行う)反復性(毎日の繰り返し)にも耐えられないでしょうし、ベビーちゃんの扱いもママのサポートもわからないでしょう(責めているのではありません)
(あー、仕事していた方がいい、、)と思うかもしれませんね。
このパパの産休
パパにもママにも、なんか気の毒
😼こうなったらヤケ○○です、どらねこの妄想です。
実家、おばあちゃん、バンザイ! でもその恩恵にあずかれない場合、希望すれば産後21日間過ごせる「産後の肥立ちホーム」みたいのがあればいいですね。家事全般をお願いでき、ベテランママもしくはおばあちゃんにお話をしながら過ごせる。パパの産休は半日で、上の子がいる場合は保育園に迎えに行き、ママのところに来てベビーちゃんに会い、ママの希望、いる物ほしい物を聞き、帰って家の掃除くらいする。帰った時に汚くしていたら(ケンカ、売ってるのか)と思われますから、帰ってくる準備をして心待ちにしていただくのがよいかと
😼今あるものとして
自治体によっては「擬実家お泊り支援」を行っているところもあります。ベビーちゃんが1歳になるまで3回とかのようですが、支援員さんのお宅にベビーちゃんと一緒に泊めてもらう支援制度です。「ベビーちゃんは見ているから、ゆっくり休んでね」と言われ、涙が出て「出産後初めてゆっくり眠れました」と話してくれたママもいました。
お住いの自治体に聞いてみていただいてもいいかもしれません。